体験記・闘病記

このページでは、受傷前から受傷後のことを忠実に書いて行っているページです。
編集・加筆のうえ、再公開しました。

受傷前(生後~)

予定日よりも2ヶ月早く生まれ未熟児だったそうです。誕生後まもなくあざを発見、神経線維腫症と診断されたようです。幼い頃から検査をたくさんしたのも覚えています。
側湾は小学生の頃からありましたがあまり進行せず、様子見でした。学校が長期の休みになると定期検査に行くのみでした。
小中学生の時は線維腫やカフェオレ班などによるいじめが酷かったです。「そのぶつぶつ何?」(カフェオレ班のこと)、「キモイ」などカフェオレ班が全身にあるのでそのことについてよく言われました。
あと、自分のことを遠ざけることはよくありました。例えば、席替えで自分の隣になるのをいやがったり、小学校などで手をつなぐ場面で8割の人はつないでくれません。特に水泳の授業は苦痛でしたね。かなづちのうえに、裸になってカフェオレ班や線維腫を晒さないといけなかったわけで・・(同様な理由で運動会の騎馬戦とかも大嫌いでした。)
小学生の時は、結膜炎だとか風邪気味だとかで理由つけて、水泳授業を休んだこともありましたが、中学生の時は病欠でも休んだ場合は、後日放課後に補習授業という仕組みがあったので、仕方なく授業に参加していましたが。

小中学校を通して担任の教師とも何度も相談しましたが、最終的には児童・生徒の問題でありいじめは解決はしませんでした。
高校の進学先は工業系に興味があったことから、市外の工業高校へ。さらに、小中学生の同級生がほとんどいない高校に進学したこともあり、いじめも減り新たな人生を過ごしていました。

受傷前その2(2006年05月~11月)

異変を感じたのは2006年4月頃(高校2年生の春)だった。腰が痛い。重たい物も持っていないのに。気にはしていましたがしばらくそのままでした。
しかし、5月の中旬頃痛みが大きくなってきたので大学病院で診察を受ける。「持病の神経線維腫症の影響で側湾が進んでいますね」と言われる。そのときは痛み止めの薬をもらって帰宅する。
夏頃、さらに痛みが大きくなり側湾も進んでいるため、「脊椎を固定する手術する」と言われる。9月頃各種精密検査を受ける。
10月になった頃、腰の激痛により歩くのが厳しくなる高校は休むことになる。(突然の休学でした)
(おそらく9月下旬に無理をして修学旅行に参加したのが原因かもしれませんが、結果的には受傷前最後の旅行になりました。ちなみに沖縄に行きました。腰痛を耐えながら・・。その時の写真が俺が歩いている姿の最後の写真となるとは・・・)

その後高校は休学扱い。手術時に使う、自己血を何度も採取した。
手術日が決まり11月に大学病院に入院する。激痛で歩くのが大変なため院内では車椅子を使っていた。11月下旬に手術日を迎える。

受傷(手術)直後(2006年11月~07年1月)

2006年11月下旬の朝、側湾の手術が始まる。手術は「後方固定術と前方骨移植」という方法でした。(左足の腓骨を移植しました)
手術が終わったのは翌日未明だった。手術は20時間近くかかったそう。大変な大手術だった。

ICU、集中治療室で目が覚める。そこには主治医と親がいた。すると主治医がいきなり「足は動くか?」と言われる。動かしてみると動かない・・。この瞬間は一生忘れないだろう。
この頃はまだ「足の動きが悪くなっている」と言っていたので足は再び動くのかと思っていた。
脊椎を固定する大手術をしているので背中はかなり痛い思いをした。予定では一晩のだけだったのに1週間ほどICUで過ごし、その後病棟の個室に戻った。高熱が出たりと大変でした。
その高熱の原因がMRSA(黄色ブドウ球菌)と判明。菌を取り除くため手術を2回する。また、ドレーンという物をしばらく装着していた。
ドレーンは年に1~2回しか使わない物らしく(当時の担当看護師の話)、研修生がドレーンを装着している自分を見に来たりしていました。
なお、側湾症の手術の合併症として、術後感染や麻痺が発生する確率は1%程度らしいですが、自分のような完全な全廃麻痺が発生するのは非常に珍しいことのようです。感染に麻痺と複数の合併症が出たことは、自分の運が悪いのか、悪い病院に当たってしまったのかどちらだろうか・・・。
側湾症など、大きな手術を受けるときは、自分のようなことになる可能性を減らすためにも、セカンドオピニオンを受けておくことおすすめ致します。

年は明けて正月も体調はあまり良くなかったです。年明け後ぐらいから少しずつ体調は回復していきました。この頃のリハビリは足や手の関節を動かしてもらうだけでした。

宣告、リハビリが始まる(2007年1月~4月)

感染の症状も落ち着いた、1月の半ば頃、医者から手術中に起きたことを説明してくれた。これと同時に今後足の麻痺は回復しないと分かる。麻痺の原因については、脊髄の血管の梗塞”かも”という説明で、正確な麻痺の原因は先生方も分からないようでした。(隠蔽していなければ)
そして、リハビリ室に行きリハビリが本格的に始まる。この頃、自己導尿のやり方も教わる。
リハビリは、軽い筋トレやプッシュアップの練習、ベッドから車椅子の移乗訓練などがメインでした。
大手術後で体力が落ちていたのでリハビリは大変でした。2月下旬頃にMRSAの危険性が無くなったことから一般の大部屋に移動する。

リハビリ病院へ転院(2007年5月~08年3月)

5月の初め入院していた大学病院よりリハビリ専門の病院に転院する。(専門とは言っても一般のリハビリ病院で脊髄損傷についてどのくらい知識があったのかは不明。)
大学より厳しいリハビリでした。自宅での生活を想定したリハビリなどをしました。
8月頃からは車椅子のキャスター上げや一般浴槽での入浴訓練、排泄の練習などをしていました。秋以降は筋肉アップということで筋トレがメインになりました。
その後、似たような内容ばかりのリハビリを続けて翌年3月下旬に退院となりました。

リハビリ病院は入院環境もあまり良くなかったです。(入院中のブログを見るとよ~くわかります。)リハビリの医者や療法士さんにつらいことを言われたりもしました。
そして自宅のバリアフリー環境を整備しないまま退院させられました。そのため2009年春に玄関にスロープを設置するまでの約1年間は自力での外出は一切不可だった。(退院前に、PTやOTが自宅訪問してるにスロープ設置提案が無いとは・・)
さらに、エアマットレスの導入提案も無かったため、その後(2014年)の褥瘡巨大化に繋がっていきます。今、考えると少しおかしなリハビリ病院だっと感じます。(患者の多くが老人・高齢者ばかりで、脊髄損傷のような若い患者は、ほとんど居なかったですからね。それだけ症例数も少ないんでしょう。)

大学病院やリハビリ病院に入院していたときは、暇つぶしに携帯電話やPSP(ゲーム機)が大活躍しました。ワンセグケータイでテレビカードもかなり節約できました。これらがなければ長期の入院生活は耐えられなかったでしょう。とは言っても、当時はまだガラケーの時代です。

退院、そして高校へ復学(2008年4月)

入院中から退院後高校への復学を考えていましたが、今まで通っていた工業高校は全日制でしかも電車で通っていた場所。新潟の交通機関はバリアフリーでは無く車椅子で毎日通うのはかなり厳しくなったので通信制の高校へ転学しました。親に送迎してもらう、という考えもありましたが、親はフルタイムで働いていましたし、車でも往復1時間はかかる場所。親に毎日2往復してもらうことは現実的ではありませんでした。
仮に、学校までの移動手段が確保できていたとしても、学校の設備面で諦めることになっていたでしょう。さらに、同じ同級生が居るクラスに復学できていたならまだしも、既に同級生達は卒業した直後。2歳も下の知らない人たちのクラスにも行く気はしませんでした。

通信制高校の話に戻し、通信制は月2回程度の登校とレポートで卒業できます。またその学校は、玄関にスロープや車椅子用トイレも整備されていました。そのため、私以外にも一人、車椅子を使っている生徒が在学していました。
理由は入院としても、年齢的には2年も留年したことになりますが・・。(工業高校2年生分、2006年度分は出席不足で単位認定されず)
また、当初はバリアフリー面も考えて養護学校(現在は支援学校へ名称変更)への転学も検討し、実際に見学にも行きましたが見学当時の高等部で知的障害が無い生徒が一名とほとんど知的障害&身体障害なような方ばかりで、
(当時は県のホームページには知的障害者の学校ではなく肢体不自由者のための学校と書かれていますが実態は違います・・・。ニュースで見ましたが少子化なのに養護学校に行く知的障害者が近年急増していてこのような自体になっているようです。)
養護学校は頭が正常な身体障害者が行くような場所ではないと速効で判断し通信制に行くことになったわけです。説明してくれた養護学校の先生にも普通高校を勧められました。
新潟県内に身体障害者のみを受け入れている養護学校があればいいのですが・・ 病気などを含めればある程度の身体障害者は居るはずだと思うのですが・・。身障者の進学はどうしているのでしょうか?

胆のう炎で緊急入院(2008年06月)

胆のう炎で緊急入院しました。6月中旬にリハビリで外来に来ていましたが寒気とともに高熱(40度ぐらい)が出て、療法士さんに勧められて、内科に受診したところ即日入院に。
エコーなどの検査から胆のうに砂があるといわれました。健常者の場合は痛みを感じるらしいですが、私の場合は麻痺しているため痛みは感じず発見が遅れたみたいです。
ちなみに6月の初め頃から熱が出たり食欲が無かったり、吐き気と異変は感じていました。点滴などの治療をして2週間ほどで退院できました。

運転免許取得(2009年7月~10月)

運転免許取得のため自動車学校に通いました。
運良く、近所に手動運転装置の教習車がある教習所が見つかり、免許を取得することができました。その後諸事情により、実際に車を改造し運転するようになったのは翌年の2010年春になりました。

2年遅れで高校卒業(2010年3月)

同級生とは2年遅れになったが、高校を卒業することができた。
通信制高校の先生達には本当に感謝です。全日制とは全く異なる勉強システムで苦労した時期もありましたが、通信制高校があったおかげで、車椅子でも卒業できた。

新潟から関東へ移住(2012年3月)

小学生の時から約15年住んだ新潟から関東(埼玉)へ移住しました。まぁ、正確に言えば出身地の千葉である関東に戻ってきたと言う言い方の方が正しいでしょう。
そう、7歳の時まで千葉にいたのですが、都合により新潟に行っていましたが、2012年時点で新潟に住み続ける理由が無くなったので関東に戻りました。
やっぱり、関東は交通機関はバリアフリーですし、雪もほとんど降らない。関東は、田舎の新潟に比べるとかなり障害者にとっては優しい町です。

褥瘡治療で2ヶ月半の入院(2014年9月~11月)

褥瘡については、繰り返し再発していましたが、今回かなりの巨大化しました。
そのため、手術をすることになりました。 陰圧閉鎖療法(VAC)を行い、ある程度治ってきたところで、皮弁の手術を行いました。
この際、生活環境を見直すことになり、自宅ベッドにエアマットレスを導入。今まで、普通の健常者用のマット使っていたと話すと、それが原因だと真っ先に言われましたと。(あのリハビリ病院が原因かよ)
また、それだけでは無く、プッシュアップの頻度を増やすなど、生活態度も見直すことになりました。

最終更新日 2016年1月26日